1/fの「ゆらぎ」-なぜだかずっと見ていられるもの-
炊き込みご飯を作ります。
炊き込みご飯はメインメニューである。おかずを一品減らしてもよい。というか炊き込みご飯だけでよい。十分ありがたい。わたしの家ではそのように決めました(きっぱり)。
ふたださとみです。
人は、見ていて癒される対象が「火派か水派かのどちらかに分かれる」と、昔どこかで見聞きしたことがあるような気がしていて…、もしかして、血液型のように、自分の意図しないところでもう決まっているという意味なのだろうか、それはそれで面白いけれど、と思った記憶があるのだけど、自分を振り返ってみても、人にどっち派だと思うか聞いてみても、「うーんとえーと…どっちも?かな?」という答えになることが多かった。それでその話はわたしの中で謎のまま。
読んでくださっているあなたはいかがですか?
癒されてずっと見ていられるのは、水派?火派?どちらも?
火にも水にも、その他色々なもの(ネットで調べると「そよ風」にも「木目」にも)に観察されるらしい、「1/fのゆらぎ」。人をはじめとする生命体の中にもそのリズムがある。だからそのリズムに沿っているものが心地よく感じられる、とのこと。
参考サイト
https://nge.jp/2017/05/20/post-139802
「不規則なゆらぎの中にある、一定の法則に沿ったゆらぎ…」。上のサイトによると、「1/fのゆらぎの国際学会」も隔年で開催されているそう。さらに、 2012年に「1/fのゆらぎのメカニズム」も解明されているらしい。
わたしは何より、「ゆらぎ」という名前(日本の研究第一人者である武者利光先生がつけられたとのこと)に魅力を感じる。「雑音」ではなくて「ゆらぎ」。
先生のお話によると、
光や音、電波など、いわゆる“情報”は、意味のわかる「信号」と、意味のわからない「雑音(ノイズ)」に区別されるのが一般的です。
https://nge.jp/2017/05/20/post-139802より
しかし、たとえば外国語を例に挙げると、その外国語を理解できるひとにとっては「信号」ですが、理解できないひとには「雑音」となります。物理学において、このような主観的な区別はおかしいと考えて、私は信号も雑音もあわせて「ゆらぎ」と呼んでいます。
素敵…。
そして、偉大な研究と一緒にするのは恐縮かつ無理矢理飛躍するけれども、
やはり、何かの「意味が分かるか、分からないか」は、状況や相手によっても違ってくるもの。
だから、コミュニケーションや何かしらの発信・表現において、相手や状況が「少し意味が分かりません」という答えを自分に返してきても、そこでコミュニケーションの努力や振り返りをするのはもちろん大事だけど、イコール「自分はダメなんだ」という判断に結びつけなくてもいいのでは、と、「ゆらぎ」ということばが持つ、器の大きさのようなものをわたしは感じて、思った。
だから、伝えたいことはたくさん伝えよう。自分の思うこと。考えたこと。
ふたださとみでした。
今日のSFOタイトルは、
雑音ではなく、ゆらぎ
でした。
SEOタイトルとSFOタイトルの違いはこちらです。「主観と客観」、「カウンセラーブログ」を意識する練習をしています。