きのこの香りが鼻から抜ける時-味わう、いま、ここ-「全集中の呼吸」?

同じ時代に生きてくださっている大好きなあなたへ、
ふたださとみです。

このところ、「organic検索」でこのホームページに来てくださる方が毎日いらして、嬉しいです。Google先生を意識した日々がありまして、キーワードで見つけてくださるようです。ありがたや。

週末、ひとりで入った喫茶店で、秋限定のメニュー「舞茸とエリンギの入ったリゾット」を食べている時、以前よりもずっとずっと「今・ここ」を味わうのが楽しく思えている自分がいるな、という気づきがありました。


最近は、友人たちと食事に行った時も、会話には参加しつつ、「この野菜の、この味いいな」とか「この食材のこの食感好き」とか、ひとり、「今・ここ・味わう」の世界に一瞬行っては戻り、ということをよくやっています…って、これは人によってはごくごく当たり前のことなのか?

私としては、これまではなかなか難しいことだったので。他の人がいたり、仕事中のランチだったりするときに、目の前の食べ物の味とか、食感に意識を向けることは、多分あまりやっていなくて。自分の軸が弱めだったり、少し繊細の気があるからかな。

それで、ヨガなど、「呼吸を大切にする世界」に、あまり詳しくない私でも分かったのが、食べ物を味わおうと思うと、呼吸は「止まらない」し、鼻から抜ける食材の香りを感じようとすると、呼吸は「深くなる」。だから、それだけで、自動的にふーっと落ち着く。その心地良い感じが、ここへ来て、私の中でクセになっているのだと思います。

マインドフルネス。

今風に言うと(この言い回し自体が古い)、「全集中の呼吸」ですな(鬼滅の刃を全く知らないので適当>>ごめんなさい)。

仕事の一部領域や、家事がその代表だけれど、「スピーディーに進みたい時・速度が優先の時」は、自分の中に取り込む情報はできるだけ捨てていった方が効率が良いし、どのように取捨するかが肝だったり、その作業がむしろ楽しみだったりもするけれど。そうやって「回していっている感」に達成感もある。

それとは逆に、感覚を、広げて、広げて、捨てないで、色々取り込んでみる。スピードは落として。ゆっくり。

そうすると、同じものに対しても、今まで自分が採用(取捨の、「取」)していた感覚、とは違う感覚(取捨の、「捨」)をいざ感じると、全く違うものとして感じられる。

きっと、いつも、「捨てる」とどこかで決めている感覚、があるのだろう。

いつも、「取り込む」とどこかで決めている感覚があるのだろう。

本能がそうさせることもあるし。傷とか怖さとか痛みとか。

エリンギとはこういうもので。リゾットとはこういうもので。上司とはこういうもので。異性とはこういうもので。いちいち捉え直していたら効率も悪いしな。傷も痛いしな。

でも、色々なことを、もう一度、新しく味わえるって、いくつになっても、ひとりでも、何かを「失った」と感じる時でも、「自分」さえここにいれば、新しい感覚をずっと体験できるのかな、とか。そう考えると楽しみだな。


きのこが嫌いな方、タイトルからここまで読んでくださって特別の感謝。
ふたださとみでした。

確実に隔日に更新したい所存