濃茶の未来-「まわし飲み」の形のこれから・アフターコロナ-

梅雨が体質的に苦手な、
ふたださとみです。
日々、水分の巡りを意識しています。

表題、「濃茶(こいちゃ)」とは、
茶道のお茶のいただき方の一種です。
茶道と聞いて、一般的にイメージされるお茶は、「薄茶(うすちゃ)」。
比較的サラサラしていて、流派によっては
泡立っていてクリーミーに感じられることも。

一方の、「濃茶」は、その名の通り濃く、
使うお茶(抹茶)の量が薄茶とは全く違います。
「点てる(たてる)」というより
「練る」。

サラサラ「飲む」というより「吸う」。

あー、何だか怖くなってきた。
先日、茶道を始めたきっかけが、「好きな人と上手くいかないモヤモヤだった」、と、ここに告白したわたしが、今から、何と、茶道の未来や奥深さを語ろうとしています…
恐れ多いですー。
やめたいですー。

ブログを書く前に情報収集として、お稽古をしている流派の公式発表などを確認しましたので(今からわたしが書くようなことはもちろんすでに、対策・方針として明文化されています)もうそれで話としては終わりでいいはず。

しかし。

わたしは実質もう4ヶ月以上も
お稽古に行けていない。
お稽古自体がお休み。
お茶について話したい熱が高まっている!

お茶愛で怖さを飛び越えてみよう。


濃茶は、薄茶のように、「1人分ずつ」ではなく、1回で2人分以上を作成します。

ということは。
はい、「まわし飲み」をします。
それは、諸説あるようですが、「同じ釜の飯を食う」的な、つながりの現れとも言われているようです。
しかし、この半年に世界に起きたことを考慮すると、この先、まわし飲みをすることはおそらくもうないと思われます。

——

茶道の世界でも、「決まりごと」は、多いのですが、それは「おもてなしの心」を体現するものがほとんどです。全部そうなのかな。

「決まりごと」=「形」として、意味のよく分からないままに真似をさせてもらっていると、ある時ふとその行動の意味が理解できることもあれば、その逆もあり。
大体、一つ一つの所作の「目的」の理解が深まると、手順を飛ばしてしまったり間違えたりすることが少なくなりますが、(目的に照らして、動作の「順番」が何となく分かってくる)

「形」から入って、正直「目的」の理解が浅いままでも、その所作が自分の中に少し馴染んできているのを感じるのも、とても感慨深い瞬間です。いわゆる、「考えなくても手が動くとき」。

同じ作法を繰り返し練習しますが、

考えて手を動かすとき。
逆に、考えたら手が動かなくなるとき。
(そんな時は、大抵ひとりごとを言い始めている)
考えなくても手が動いたとき。
考えていなくて、手も動かないとき。
(わたしはまだ、これがほとんど)

そのどれもわたしはあります。
未熟ゆえ…

形を大事にしながら、形の目的を忘れず。

全ては、「おもてなしの心」や「ご縁への感謝」を体現するための形。
まわし飲みも、そのひとつの「形」だったとしたら、(おそらく今後)なくなってしまうのは残念だけれど、また次の時代の「形」も、時間をかけて、新しく生まれるのかもしれない、と思います。

 

…毎回、お菓子を大きな楽しみにお稽古に通っているわたしがすみませんでした。動機も目的も不純でした、、

形式美とか、形とか本質についてはまだ上手くまとまらないのでまたいつか。もちろん茶道だけではなく、たくさんの分野の中にあるものなので、他の分野のことも教えてもらいたい。

茶道については、外国の方に紹介するイベントに参加した時の準備がとても面白かった思い出とか(外から改めて見てみると本当に面白い)、お茶会の時に、正客(その席のお客さんの代表のような立ち位置)に誰がなるかを巡って必ず起こるやり取り(譲り合い&遠慮)があるのですが、それを心理学的に見るとどうだろうと思ったり、でもあれも形式美の一つなのかなあ…、また考えてみたいです。

次回、「1時間で、わたしの心の奥の謎を一緒に
見に行ってくれたカウンセラー」というタイトルの
ブログを書きます(自分との約束)。

 

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