わたしの「感情の蓋」が完成したとき-おじいちゃんへの手紙-

トルティーヤを作りたい今日この頃ですが、実はトマトが
あまり得意ではありません、
ふたださとみです。


突然ですが、

わたしの、「感情の蓋」が完成したのは、おそらく1986年の夏。

カウンセラー講座の仲間の皆さんに話を聞いてもらううちに
よりクリアに整理されてきた。


「感情の蓋」…わたし、どういう意味で使っているんだろう…、

自分でもまだ分からない。
もちろん全部の感情を抑えているとは思わないけれど、
もともとが母譲りの情熱の塊なのかな…と思うので、
それにしては抑えているほうなのかな。
「網戸」ぐらいのイメージ。
いい気分だけ(心地よい風)は通したいけど、悪い気分(虫)とか通ってこないで欲しい。
それは、無理があるね…
だから今までそれなりにこじれたんだよね…
今もね…

 

わたしの父母の「ロマンス気分」は、わたしが物心ついた時には、
「タイムカプセルに入れられて家の庭に埋められていた」という話が
あるのですが、
今、実家に帰ると、二人の間には、なかなか温かい雰囲気が流れていて、
長女の率直な感想としては「あれ、聞いてない、ずるいー」です。
でも、「やっぱりそうなんだよね」というありがたみもあり。
長女も色々大変だよー。


第一子長女のわたしは、妹が生まれる時に、
母のつわりが酷かったため、
3ヶ月ほど祖父母の家に預けられました。

祖父の家に預けられて、父の車が去っていく光景が、わたしの一番古い記憶。
二番目に古い記憶は、実は今の仕事に直接関係があるような場面で、
それはそれで興味深いのですが、それはまた別の話。


この祖父が、大正生まれの戦争経験者、その名前に、当時のお国の別名を

背負うという人で、(例えるなら「江戸男」「越後郎」のような)、
情熱の塊、頑固ですが愛にもあふれた人でした。

 

…おじいちゃん。ごめん。
そのおじいちゃんの愛、当時まだ幼児だったわたしには恐怖でしかなかった。
おじいちゃんはわたしに泣いて欲しくなかったのね。
きっと、どうしていいのか分からなかった。かわいい孫が泣いていて。
だから、「泣くな」と怒った。
おじいちゃんが怒ったからわたしはまた泣いた。
だから、わたし、ずっと泣いていた記憶。
じいじ、そこは、怒るところじゃないよー!
怖い、寂しい、本当はワガママ言いたい、、
(以下のお恨みはチラシの裏に続く)

 

わたしは泣くしかなく、祖父は怒るしかなく。
祖母は優しくて、楽しい時間も確かにあったと思うので、それが救いだった。

わたしが母と再会した時、母は嬉しいやら会いたかったやらで
わんわん泣いていたけれど、

わたしは無表情だったと、母は今も申し訳なさそうに言います。
わたしの記憶にはその時のことはないけれど、もう「感情の蓋」のようなものは
完成していたのかな。

 

でも、それから30年後の未来では、
妹が子どもを二人産んでいて、
同じように1人目の子が寂しい思いをしているところを、
母とわたしで見つめながら、
「さっちゃんもこんな風に寂しかったのよね、ごめんね」
「わーん、おかーあさーん」(←そうはならないのが長女ですが、長女なりの表現で)
、というやり取りができた、というのも、感慨深い。

 

でも「気持ちが癒されていく」ことと、
「新しい感情の扱い方に慣れていく」ことは、
延長線上にある気もするけれど、
少し「思い切り」が必要な時があって、

時々、螺旋階段を登っているようで、
また前と同じ景色を見ているのだけれど…
わたし、大丈夫かなあと思うときが
あるよね。
新しいやり方って最初は違和感だなあ。

 

ただ、「気持ちの解放」は一段飛ばしにできないのは確か。
長女としては、そここそ、飛ばしたいのですが。
飛ばすと「感謝」も「理解」も、自分で自分を苦しめる武器になる。
感謝しなきゃいけないし、
理解しなきゃいけない、って。

それは、自然に湧き出てくるものなのかも。感情が解放されたあとの地面から。

 

そういえば、職場で、「長女会をしよう」って、飲み会をしたら、
みんな毎日頑張ってたし、気持ちを吐き出し始めたら止まらなかったね。
しかも解散後に「今日はありがとう」LINEを全員が忘れずにするという。


わたしの家族のストーリーに寄り添ってくれているカウンセラーの
お弟子仲間の皆さまも、いつもありがとう。

まずはどんな気持ちでもただただ解放ですなあ…(新口調)。
ふたださとみでした。

次回、「10年日記が8年前で止まっていた時の対処法」、
「北海道の名所・青い池、が青くなかった時の対処法」などのタイトルの
ブログを書きます。

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