退職の時にもらった愛をもう一度受け取り直す試み

同じ時代に生きてくださっている、
大好きなあなたへ、ふたださとみです。

本日11月11日は、チンアナゴの日。ポッキーの日。
今から約20年ほど前の平成11年11月11日11時11分、「この時何をしていたかをずっと覚えていよう」と、その時一緒だった級友(わたしは20年前、高校生でした)と話していたので、今でも覚えている。体育の授業中だった(不真面目か)。



結構前に、私が、とある会社を退職をした時の話。


覚悟を決めて、直属の上司に、今年度末で退職したい旨を伝えてから数日後、さらに上の上司である、次長が直接話をしたがっているから、次長室に来るようにと伝えられた。

次長室に行くと、次長は手帳とペンを手に持っていて、

「話は聞いた。組織の中の、どこを改善すればいいか、遠慮なく話してほしい」と。

あ、これは退職の意志を伝えに来た人みんなに言うお決まりの句なんだ。その時の私はそう思った。

「とんでもないです。ありがとうございます。色々な経験をさせていただき、ありがとうございました」、といったようなことを私は伝えた。

本当は、伝えてみたいことがあったけれど。疑問に思っていたこともいくつかあったけれど。全て飲み込んで、そう伝えた。もう何年も、上司の指示に従って働いてきたのだから。その中で、私が意見を言える範囲はどこまでなのかは、もう十分に知っているつもりだから。その境界線にチャレンジすることはもう諦めていたし、退職することはもう決めていたから。何より、「退職の意志を伝えに来た人みんなに言うお決まりの句」に真面目に答えるのもアレだろう、その空気は読みますよ、その時そう思った。


「もう少し考えてみてほしい」

と次長。ありがたい。ありがたいけど、きっとそれは退職の意志を伝えに来た人みんなに言うお決まりの句その2。そう思った。

できる限り丁寧に感謝を伝え、その場を失礼した。

そこから退職の日まで、周囲の先輩後輩同僚が伝えてくれたことばは、ありがたく受け取った、と思っていた。先輩も後輩も同僚も、また一緒に働きたいと、そう言ってくれていた。ありがたい。でもまあ、退職していく人にはそう言うものである…心のどこかでこう思ったこと、今、これを書きながら震えるほど後悔している。

退職してから時間が経って、連絡を取る機会があった時、「まだ働いていないのなら、うちなんかどうですか」と先輩や後輩が言ってくれた。笑いながら冗談として受け流した。「(私に)力を貸して欲しい案件が入った、でももう次が決まっているならこの話は聞き流して欲しい」と連絡をもらうこともあった。

…いやいやいやいや、これ、どこまでが「本当のこと」なの?

ずっとそう思っていた。


…「全部本当だとしたら、どうする?どう思う?」
…「どうして本当じゃないと思うの?」


そう聞くよね。自分に。

私は、自分のやってきたことの価値みたいなものとか、会社での自分の存在の価値みたいなもの、全く受け取れなかった。在職中は、「自分はこう思う」とか、そんな声を上げることも全くしてこなかったし、自分のどうにかできる範囲で黙って頑張るしかなかった。我慢の限界が来たら退職をする。そう思っていた。色々自分なりに頑張っているつもりではあったけれど、犠牲もしていたので楽しくなかった。自分は何もせずに上司に勝手に期待をして、勝手に裏切られた気分になっていた。

今思うと、自分の軸も不明だし、自己肯定感も「低め安定」。何かひとつ山場を越えたような気がした後の自己承認もあまりせず。
…定期的に「承認デー」を作るのだ!、祝杯をあげる日を決めておくのだ!、山場を越えることだけが凄いのではない、そもそも日々色々えらいよ、よくやってるよ!
と自分に声かけしてあげよう、今はそう思う。

「それで、私はどうしたいのか」。結果、ここに行き着いた。

そして、「また働きたいなあ」と私がポツリと漏らした一言に対する反応で、周囲の人のことばが全部本当だったことを、私は知ることになった。感謝しかない。

「自分の受け取っている自分の価値の範囲でしか、他人の思いやことばを受け取れない」のだ、本当にそう思う。


続く。

ふたださとみでした。