「10年日記」が6年前で止まっていた-継続すること-

冬瓜と豚肉の煮物を作りました、
ふたださとみです。
冬瓜がいい具合にとろけました。


好きな食べ物を食べるとか、眠るとか、そういった根源的な欲求によってすること以外に、

何かひとつのことを、「継続する」、「継続させる」ことができるのは、ひとつの才能だと思う。
わたしは、どちらかというと苦手なほう。


毎日やろうと決めた痩せるらしいストレッチも、

毎日撮ろうと決めた自分の飲んだ紅茶の写真も、
いつの間にかやらなくなっている。
「〇〇をしない」というルールだったら何となく続けられることも多い。
決めたことに対する意思はそれほど弱くはない(と思う)が、
とにかく面倒くさがり。その面倒くさがりを超えるほどの強い意思が必要。
それを意思が弱いというのか…。

 

どんなことだったら続くか。


好きな人に会える日まで・イベントの日までに力を入れてする、ダイエット。

これは何とか続いた。
職場で毎日やらないといけないルーチン業務。
これも続いた。続いたというか、続けないといけない。

「自分軸で好きなことを楽しむ」ならまだ継続できそうだけど
(それも続けられないことがあるが、「好き」の度合いの問題なのか)
それ以外で何か続けようと思ったら、とにもかくにも、「他者の目」。
承認されたいとか、そういう欲求につながる部分がある。
他者の目を「気にする」というよりは、「ありがたい刺激」として意識させていただく、
という感じの温度がちょうどいいね。


長女で、人の目を気にして生きてきたわたしとしては、

「他者の目が全く及ばない部分」へのモチベーションの低さが半端ない。


他者の目が全く及ばない部分。

日記。
7年前に、「10年日記」を購入した。
可愛らしい装丁の、「この可愛い本を寝る前に開く女子は素敵ではないか」と
思って買った日記。動機が不純。

これ。

それが、6年前で止まっています。1年しか続いてない。
1年も続いたらいいじゃない、と思おうとしてよく見返してみたら、


「休」。謎の休み。
多分だけど後からまとめて書いたと思う。

 

休みじゃない日は何が書いてあるかというと、

無意味語。
多分だけどこれも後からまとめて書いたと思う。


ただ、「おっ、これは意味深〜」ということも時々書いてあるので、

読み返すと楽しい。

「今日はすごいことが起こった。自分に禁止していたことをした。世界が動いた。」
って書いてある日がある。
2013年6月16日。世界が動いたらしい。

何があった。


やはり続ければよかったかな。

今から再開してみようか。
「連続した10年」ではなくて、「任意の取り出し10年」でいいか。

結果はまた3年後ぐらいに。
ふたださとみでした。

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