相手に「助けられ」ても受け取れないとき
豚キムチを作りました。ふたださとみです。
夕食は少し白米を控える習慣があるのですが、白米に合うおかずの日には少し心が揺れます。
その昔、「タイの人は頭を撫でられるのが好きではない(というかタブーに近い?)」と聞いたことがあって、もともと海外旅行にそれほど興味があるほうではないのに、なぜだかピンポイントでそれだけ覚えている。
「愛をもってした行動」が、全然違う方向で受け取られること、海外ではあるんだな。と思っていたら、国内にもあった。というか家庭内にあった。
食事の準備の話。
夫が、「良かれと思って」色々手伝おうとしてくれるものの、自分が疲れていたりする時はそのやり方の差に少しイライラ。
わたしは、料理がそれほど手際良くできる自信はないものの、一応、自分なりの流れを作って日々試している。とりあえず下ごしらえをして(この時シンクの中には切った野菜の皮などが落ちている)、お鍋に入れて、あとは煮込むだけになったタイミングでシンクの片付けに取りかかるとか。時々、下ごしらえ中に、たまたま通りかかった夫が、わたしのタイミングとは違うタイミングでシンクを片付け始める。心に余裕がある日はありがとうと言えることもあるけれど、
「それ、後でわたしがやろうと思っていたのに…」
と思うことが多い。
別のある日、お互い1日外で頑張ってきて、そこからバタバタと夕食を作って出した時に、わたしとしては「とりあえず食べられる物がこの時間までに何とか準備できた」という気持ちいっぱいでお皿をテーブルに並べていたところ、夫、お皿の横に少しついてしまったソース?スープ?を拭き取ろうとしている。心に余裕がない日のわたしは思う。
「それ、わざわざ拭き取らなくてもいいのに…」
夫はわたしと比較すると、綺麗好きなほうではあるものの、基本的に「良かれと思って」「愛をもって」やってくれているのは分かる。手伝って(助けて)くれているのも頭では分かる。それでも、わたしはダメ出しをされた気分になって少し悲しかったりイライラしたりしている。
「夫が自分にダメ出しをしているように、わたしが思う」ということは、「わたしがわたしにダメ出しをしている」ということかもしれない。シンクは即座に片付けないといけないし、盛り付けも綺麗にしないといけない、それらを1人でしないといけない、と自分に対して思っている。
「〜してはいけない」をゆるめるとしたら。
「〜してもいい」に書き換える…。
「シンクは即座に片付けなくてもいい」「盛り付けも綺麗にしなくてもいい」「1人で全部やらなくてもいい」。
「1人で食事の準備を全部やらなくてもいい」。
だから、
「夫と分担してする」。夫の行動に対しては、「ありがとう」。わたしの苦手なところを担ってくれてありがとう。
さらにもう一歩踏み込んで、「夫に、わたしを助けさせてあげる!」(てへぺろ)
(男性に対しては、てへぺろ、ぐらいの軽さを出したほうがいいかなと試行中)
生まれ育った家族ではない誰かと同居するということは、もともと、違う国で育った人がひとつの家に住んでいるようなもの。
家が、また新しい、そして楽しい国になりますように。
ふたださとみでした。
今日のSFOタイトルは、
キレイ好きの夫とズボラ妻
でした。
SEOタイトルとSFOタイトルの違いはこちらです。
「主観と客観」、「カウンセラーブログ」を意識する練習をしています。